[2019年09月01日 主日礼拝説教要旨]

「信仰と行い」
ヤコブ1:19−27

 使徒ヤコブは言う「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(ヤコブ1:22)。そして、具体例を挙げて、人々の信仰を問うた。それがヤコブの手紙である。
 主イエスは行為を伴わない信仰は、砂の上に家を建てるように、嵐が来るとすぐに流されてしまうと言われた(マタイ7:26-27)。聞くだけでは信仰は育たない。ヤコブは言う「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。」(ヤコブ1:23−24)。御言葉が力になるのは、それを実践した時なのである。私達は思う。隣人の為に「全部を差し出すことが必要なのか。」。信仰者であっても、人間である限りできないのは事実である。しかし、出来ないことに留まるのではなく、出来るように祈れと言われているのでる。
 ヤコブは続ける「孤児や、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」(1:27)。ここに信心とあるが信心よりも礼拝と訳したほうが良い。ヤコブは礼拝とは孤児ややもめの世話をすることだと言っている。しかし、ヤコブは日曜日の礼拝を軽視しているのではない。逆に日曜日に教会に集められ、御言葉を聞くことが最も大事だと言っているのである。聞くことが最初である。ヤコブが「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」(1:19)と語るのはそういう意味である。聞くに早く=神の前に耳を傾ける以上に大事なことはない。その時話すに遅く=自分の思いを語るな、神の言葉に語らせるために聖書の前で静まれ。そして怒るに遅く=熱狂的になるな、感情的になるな、冷静に聞け。こうして、私たちは日曜日に御言葉をいただき、それを覚えて、月曜日からこの世の生活に入るのである。そして月曜日から新たな礼拝、生活の中に置ける信仰の実践という礼拝が始まるのだとヤコブは言う。今、私たちの最大の問題は、日曜日に聞いた神の言葉が月曜日からの生活に何の影響も及ぼさないことである。私たちが信仰していても、毎日の生活が何も変わらないとしたら、何になるのかとヤコブは問いかける。
 「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしたのだ」、これが月曜日から始まる私たちの礼拝である。この一つ一つの実践を通して、私たちは神の民にさせられていく。パンを相手に全く与えない時に、私たちには何の変化も生じない。パンを半分与えた時、私たちはひもじさと共に喜びを感じる。パンを全部与えた時、私たちは「父なる神が私たちを養いたもう」ことを信じる者とされる。「御言葉を行う人になりなさい」とのことば、この一週間、毎日この言葉を覚えて生活して行きたいものである。そこに良き道が何かがそこに生まれてくる。信じて歩み出したい。

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