[2019年6月2日 主日礼拝説教要旨]

「信仰者としての使命」
マタイ28:16−20

 今日与えられた聖書はマタイ28:16−20。主イエスの大宣教命令と言われる箇所であるが「この世界で信仰者としてどのように生きていくのか」を考えるよう示唆されている。主イエスは言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、全ての民を私の弟子にしなさい」(28:18b-19a)。イエスを裏切った弟子たち、今復活のイエスに会っているのにそれを信じきることが出来ない弟子たちに、宣教の使命が与えられた。「全ての民を私の弟子にせよ」、これが弟子たちに与えられた使命であった。その使命の具体的な内容が次に語られる。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:19b-20a)。
 「バプテスマを授ける」、原語はバプテゾ−、水に浸す・沈めるの意味である。「父と子と聖霊の名によって」、「父と子と聖霊の交わりの中に」、彼らを沈めなさいと命令されている。ここにバプテスマの原型がある。私たちは何のためにバプテスマを受けるのか、それは「父と子と聖霊の交わりの中に」生きるようになるためである。不信仰な、弱い私たちは一人では信仰を維持していくことは出来ない、だから信仰者の交わりの中で、つまり教会の中で私たちは育てられていく。そして教会では、毎週の説教や祈祷会の学びを通して「イエスの戒め」、すなわち「愛し合いなさい」という戒めが語られ、教えられて行く。復活のイエスは弟子たちに宣教の使命を与えられ、最後に言われた「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20b)。「あなたがたと共にいる」しかし、現実の私たちはその臨在を感じることが出来ない。私たちは説教を聴きながら、御言葉に集中することが出来ない。聖餐式のパンとぶどう酒をいただいても、感動を覚えるわけでもない。何かが足らないのである。何か、行為が足りないのである。頭で理解した知識、理性で納得した信仰、いわば教養としての信仰は何の役にも立たない。聞くだけの信仰は人を生かさない。私たちは信仰の行為に踏み出す必要がある。何かを変えるのである。「本当にイエスは共にいてくださるのか、その臨在を感じることが出来ない」とぐちをこぼすのを止めて、「イエスは私のインマヌエルになって下さったから、今度は私が他の人のインマヌエルになろう」と決意し、実行していく時に状況は変わっていく。冨も力も。時間も惜しみなく、神様に捧げるのである。必ず何かが変わる。皆さんが主体性をもって礼拝に望む生活をするとき、皆さんも教会も変わって行く。「全ての民を私の弟子にしなさい」のみ言葉にお応えし、信仰者としての使命を果たして参りたいと願う者である。

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