[2019年5月5日 主日礼拝説教要旨]

「主イエスの証人として」
ルカ24:36−49

 パウロは復活の主に出会った経験をコリントの教会への手紙の中で、「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。・・・ 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました。」(コリ二15:3-8)。ここで、復活のキリストに出会ったのは、すべて弟子たちであり、その他の人たちは復活のキリストに出会っていないことに注意する必要がある。復活のキリストは霊の体であり、信仰なしには見えない。私たちは復活のキリストに出会って、心が熱く燃えた経験がある。今も熱く燃えているだろうか。
 今、私達の教会は様々な問題を持っている。古くからこの教会を支えてくださった方々が、お年を召したり、病気になられたりで、共に礼拝を守れなくなっている。今現在、この教会を支えてくださる方々も小さい教会ゆえの負担の重さにあえがれている。いま、この教会は皆さんの力、信仰の力が必要なのである。もし皆さんが、今も熱く燃えているならば、この川口教会を基点として、ご一緒に伝道にまい進して行きたい。もし、皆さんの熱が少し冷めているならば、今改めて復活のキリストを呼び求めてほしいと思う。皆さんなしには、この教会は伝道できないのであり、皆さんなしにはこの教会は存続し得ないのである。この教会が復活のキリストの命令に答えて立てられていることを今一度、共に覚えたいとおもう。「救わんが為に救われた。」という、キリストの教会で長く語られてきた言葉がある。自分が救われたのは、自分を通して一人でも多くの者が救われる為だ。自分の救いは、自分だけのものではないことを覚えたい。主イエスの弟子たちは、この復活の主イエスとの出会いによって変えられた。神様の大きな救いの御業の中で生かされ、それに仕える者として召されたからである。自分の幸い、自分の願いというもの以上のもの、自分の人生に意味を与える大きな使命と言うべきものを与えられたからである。これを召命と言う。この主イエスの召命に応えて生きるという新しい人間がここに誕生したのである。私達には召命が与えられているのである。証人として生きるのである。復活の主イエスを信じる者には、この復活の主からの使命も共に与えられているのである。この主イエスからの使命、主イエスの召命というものに生きることを志そうとしない信仰は、使徒以来私達が受け継いできた信仰ではない。 主イエスの証人として歩んで参りたいと願う者である。

トップ説教要旨 > 2019年5月5日 主日礼拝説教要旨