[2019年4月7日 主日礼拝説教要旨]

「恵を証つつ」
エレミ37:11−21 ルカ20:9−19

「ぶどう園と農夫のたとえ」から聞く。「ぶどう園の主人」これは主なる神様を指す。「ぶどう園」、これは旧約聖書以来、神の民イスラエルのことを指す。「農夫」とはイスラエルの人々、特にその指導者達。ぶどう園に送られて来た主人の「僕たち」というのは預言者達であり、「主人の愛する息子」というのは神の独り子である主イエス・キリスト御自身である。したがって、このたとえ話は、神様はイスラエルの民の指導者たちに神の民を預けたけれど、いつの間にか民の指導者たちはそれが神様のものであることを忘れ、自分のものにしようとしてした。何人もの預言者を送ったけれども、その預言者の言葉に聞き従わず、自分の思いのままに預言者を追い返した。そして、遂に神様は愛する独り息子であるイエスを送られる。預言者の言葉は聞かなくても、愛する独り子の言葉なら聞くだろうと考えたからである。ところが彼らは、これは跡取りだ、殺してしまえば相続財産も自分のものになる。そう言って、愛する独り子さえも殺してしまう。その結果はどうなるのか。神様は、神の民をイスラエルから他の人、つまり異邦人へと変えてしまう。そういう話になるのである。主イエスはこの19章において1節から一貫して、神様のものを自分のものにしてしまおうとする罪を告発しているのである。私達は、この罪と戦わなければならない。これは自分の人生、自分の富、自分の子どもに対するあり方として、最もはっきり現れてくる。私達の人生は、自分の為にあるのではない。神様の栄光を現す為にある。私達に与えられている全てのものは神様の栄光の為に用いるのである。私達の罪を、神様は忍耐をもって見ておられ、必要な導きの言葉を預言者の口を通して与えられ続けた。この神様の忍耐は、今も変わらず私達の上に注がれているのです。神様は待っておられる。この世界の全ての民が神様をほめたたえるようになることを、待っておられる。この主が待っていて下さっている間に私達が為さなければならないことは、神様のもとに立ち帰り、まことの悔い改めを為すということである。この世界に悔い改めが起きることを願い、求め、その為に神様の御心を伝えていくことである。それは、ただ口で言うだけではなく、私達の存在を通して証ししていかなければならない。私達が、自分の人生も、富も、家族も、神様の栄光の為に用いられることを喜び、そこに献げる歩みをする中で証ししていかなければならないことなのである。自分のことしか考えられないのは、実に悲しい。罪の悲しみである。私達には、この悲しみから自由になる道が与えられている。それが、主イエス・キリストである。この自分から解き放たれる自由こそ、私達がこの現代の日本にあって、伝え、証ししていかなければならないことである。その恵みを証しする者として、主と共に、主の御前を歩んでまいりたいと願うものである。

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