[2019年3月3日 主日礼拝説教要旨]

「あなたが与えなさい」
イザヤ41:8−16 ルカ9:10−17

 五つのパンと二匹の魚を5千人に給食した。配っても配っても無くならない程に、パンと魚が増える。ここれ、私達が生活している現実の世界での常識では考えられない。私達の現実世界の大前提と真っ向から対立するのです。この信じ難いことが起きたのです。何故か。それは、主イエスが、まことの神であられるからです。無から有を造り出した、天地の造り主であられる、まことの神であられるからであります。この奇跡こそ、実に主イエスが誰であるかということを明確に示しているのです。
 私達の手にしている聖書には、4つの福音書があります。この4つの福音書全てに記されている主イエスの奇跡は、実はこの奇跡だけなのです。それは、何を意味しているのでしょうか。それは、この奇跡が、他のどの奇跡よりも弟子達を驚かせ、深く心に刻ませたということではないかと思うのです。この奇跡において、弟子達はただ主イエスのそばで見ているだけではありませんでした。彼らは自分の手で配ったのです。そして、配っても配っても無くならない驚きを体験したのです。弟子達は、自分の手で食べ物を与えたのです。彼らは驚き、喜び、そして、主イエスというお方が誰であるかということを知らされたのです。だから、この出来事の後で、ペトロは主イエスの「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」という問いに対して、「神からのメシアです。」という信仰を告白するに至ったのであります。このキリスト教会最初の信仰告白を生み出した奇跡が、この五千人の給食という出来事だったのです。

 配っても配っても無くならないパン。皆が満腹になるパン。これは後に、主イエス・キリストの体である聖餐のパンを指し示すものとして理解されるようになりました。教会は二千年の間、この聖餐のパンを与える者として立ち続けてきたのです。聖餐に与るたびごとに、弟子達は、五千人の人々にパンを配った時のことを思い起こし、それを為された主イエスというお方への信仰、まことに天地を造られた神様ご自身であるという信仰を確かにしていったのであります。

 弟子達は、自分の手には、「五つのパンと二匹の魚しかない。」と言ったことを恥じたでしょう。主の御業を信じ、それに委ねることが出来ず、自分の手元にあるパンと魚でしか事を判断することが出来なかった自分を恥じただろうと思います。ここで弟子たちは、神様が共におられるならば、五つのパンと二匹の魚で十分であることを知らされたのです。教会も私達も、いつも五つのパンと二匹の魚しかないのです。主イエスが事を為せと言われるご命令を実行していくには、いつも、あまりに小さい器であり、欠けに満ち、とても出来そうにないのです。しかし、主イエスはいつも言われるのです。「あなたがたが与えなさい。」他の誰でもない、私達が自分の手であたえなければならないのです。私達が「無理です。」と神様に言う時、私達は喜びましょう。何故なら、その時私達は、自分では無理と思えることを神様が為して下さる、その神の奇跡の中に自分は歩み出そうとしているからであります。神様による奇跡の歴史。それがキリストの教会の歴史なのであります。やってみる前に、「無理だ、出来ない」と言うのをやめましょう。出来ない私達を百も承知で、神様は私達を召し、「やりなさい」と命ぜられているからです。主イエスが命じられるということは、主イエスがその御力をもって為して下さるということなのです。弟子達は、ただパンを配っただけです。パンを増やすことは弟子達のやることではないのです。主イエスが増やして下さるのです。私達はただ配るだけなのです。配っても配っても無くならない、キリストの恵み、キリストの福音、キリストの命を配って参りたいと願うものであります。祈りましょう。

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