[2019年01月06日 主日礼拝説教要旨]

「神殿に参った主イエス」
サムエ上1:20−28 ルカ2:21−40

イエスの両親は神殿でシメオンに出会い、祝福を受ける。これが歴史的出来事であったのかどうか、私たちは知らない。しかし、シメオンの言葉の中に、著者ルカの信仰告白、イエスの生涯をどのようなものとして理解しているのかは如実に出ている。ヨハネによれば、イエスが十字架にかかられた時、母マリヤはその足元にいて、自分の子の姿を見た(ヨハネ19:25)。このような生涯がシメオンにより幸いなりと祝福されている。何処が幸いなのであろうか。十字架と復活を通してマリヤはイエスがキリストであったことを知り、キリストの十字架が自分にとって祝福であることを知り、その時始めて、シメオンの言葉に「アーメン」と言えるものになった。私達はこれからどういう生涯を送るのだろうか。一粒の麦として己に死ぬことにより生きたい。多くの実が残り、その実はまた新しい実を結んでいく。神から頂く場所で生きたい。

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