[2018年12月02日 主日礼拝説教要旨]
「主の再臨の希望」
ルカ21:20−28
今日から、教会ではアドベント、待降節の時を迎えた。キリストの降誕と再臨を待ち望むのがアドベントである。アドベント(ラテン語=来る)は「私はまた来る」と言われたキリストの再臨を待つという意味もある。従って、クリスマスを待つとは、同時にキリストの再臨を待つということでもある。そして、聖書では終わりの時にキリストが再び来られ、神の国が実現すると記している。だからアドベントの時に、教会は終末のことを考えるのである。今日は、クリスマスを前に、アドベントのもう一つの意味であるキリストの再臨について、ルカ福音書21章から聞きたい。ルカ21章は終末の到来を預言したものとして知られている。終末を世の終わり、世の滅亡の時としてこの聖書個所を読む人たちがいる。しかし、聖書が明らかにするのは、終末は滅びの時ではなく、救いの時、解放の時である。終末とはキリストが再臨され、神の国が完成する時であり、救いの時、待ち望む時なのである。その時がいつかについて聖書は一言も触れない。それは父なる神がお決めになる時であり、人間は知ることを許されないとイエスは言われている(マタイ24:36)。だからその日に備えて目を覚ましていなさいということだけなのである(ルカ21:36)。何時終わりが来るのか私たちは知らないが、終わりは来るという思想は聖書に一貫している。黙示録は神の国の到来で終る。その終わりの時とは世の完成する時であるとヨハネ黙示録は言う。ヨハネ黙示録21:3-4がその個所である。聖書の記す終末とは、神が人と共にあり、人の目から涙が拭い去られ、死も悲しみも叫びもない世界。この苦しい現在の生を終えた時、すばらしい世界が待つ。だから御国の完成を待ち望みなさいと言われているのである。マルテイン・ルターが言うように「例え明日が世界の終わりであっても、私は今日リンゴの木を植える」という生き方をする。今を大事に生きる。為すべきことをして終末を待つ。私たちが終末を、キリストの再臨を待ち望むということは私たちの生き方を変える出来事なのである。聖書は、終末は既に始まったが完成されていないと説く。キリストの復活によって終末は既に始まり、キリストの再臨によってそれは完成する。私たちはキリストの復活と再臨との間の中間の時、終わりの始まりの時にいると聖書は言う。その終わりの時を生きる私たちは、既に罪が赦され、永遠の命が約束されている。しかし、その約束はまだ成就していない。だから、罪を赦されたものとして、それに相応しく生きるのである。私たちは教会に来て神と出会い、その言葉を聞いて生きる。主は既に戸口に立っておられる。その主に対し「主よ、来たりませ(マラナ・タ)」(ヨハネ黙示録22:17)と祈る時がアドベントの時である。