[2018年09月02日 主日礼拝説教要旨]

「生涯を捧げて生きる」
マルコ12:35−44

 今朝の御言葉は、主イエスが「律法学者に気をつけなさい。」と注意を促した言葉と、貧しいやもめが献金を献げたことが記されている。信仰者として生きていく上で、私達はどこを見ているのか、何を求めていくものなのか、そのことをはっきり示している。「律法学者に気をつけなさい」律法学者に対しての批判の話が告げられている。神様に見られている、神様の御前に生きているということよりも、人に見られている、人の目ばかり気にしている有り様が批判されているのである。祈りさえも、神様の御前に立つことが抜け落ちている。何ということか、ということである。律法学者のように信仰深いと思われている人であっても、このような目に見えるものに引きずられていってしまう。そういう誘惑に誰もがさらされているのだから、あなたがたも気をつけなさい。それが、主イエス言おうとされたことなのである。教会、信仰者は十字架の福音にたつべきなのである。
 次に、貧しいやもめの献金の話である。ここで大切なのは、この生活費が一日分であるかどうかということではない。この人は、自分の献身の思いをこの献金によって示したということなのである。このやもめはすべて献げた。つまり、完全に献身したということなのである。律法学者と比べるならば、この人には何もない。しかし、神様を愛し、神様を信頼し、神様の御手に自分のすべてを委ね、献げたのである。主イエスは、このやもめの姿に、信仰者としてのあるべき姿を見たのである。また、主イエスはこれから自分が十字架に架かる歩みを、このやもめが献金する姿に重ねて見ておられたと思う。実に献身とは、この主イエスの十字架において極まっている。私達が為す献身というものは、十字架の主イエスと繋がることである。私達は誰も罪に満ちた者である。そのような私達が為す業において、もし聖なる業と言えるものがあるとすれば、それは献身ということである。この主イエスの十字架に連なる献身は、主イエスの十字架が人々の賞賛を受けることがなかったように、人々からの賛辞を受けることはない。それを求めたところでは、献身にならない。私達は、ただ私のために十字架にお架かりなられた主イエスを見る。ただこの方の愛に応え、ただこの方と共にありたいと願うのである。私達は、主イエスに救われた、そのまなざしをしっかり神の国に向けるのである。私たちには、祈りが必要である。祈りとは神様から力をいただく行為である。私たちが隣人のために祈り始めた時、隣人の欠点を数えなくなれば、教会が神の国になって行く。救いの中に入れられるのである。パウロは言う「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤ6:14-15)。新しい命に生きる、その祝福として、私たちはバプテスマを受ける。そして自分の生涯を神への捧げものとして生きるように変えられていくのである。

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