[2018年08月05日 主日礼拝説教要旨]

「主に結ばれている者として」
マルコ9:42−50・ヘブラ12:3−13

 ヘブライ人への手紙はユダヤ教徒からの迫害に苦しめられ、信仰が揺らぎ始めたユダヤ人キリスト者へ書かれた手紙と言われている。「私たちはイエスが十字架から復活されたとの宣教を聞いて、この方こそ神の子と信じた。信じたばかりに、家から追放され、職を失い、捕らえられ、殺されようとしている。神は私たちのこの惨状をご覧にならないのか、何故私たちのために救いの行為を起こされないのか」と苦しむ人々に書かれた手紙である。
 「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(12:3-4)。一見すると厳しいだが、真意は慰めの言葉である。すなわち、あなた方は迫害の中で気力を失い、座り込んでいるが、御子キリストはそれ以上の苦しみを苦しまれた。しかし、御子は苦難に勝たれ、今は神の右に座しておられる。この御子を見よ、御子が十字架で血を流してくださったから、もうあなた方は血を流すほどの苦難は不要になったのだ、だから主を見つめて立ち上がりなさいという慰めがここに語られている。
 著者は箴言3:11-12を引用して言う。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(12:5-6)。この苦難は父なる神があなた方を鍛錬するために迫害という苦しみを与えられている。そして言う「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(12:11)。忍耐して試練に耐えた者には、「義」という平和に満ちた実が与えられるのだというのである。第二次大戦中、教会も試練を受けた。迫害を受けたが復興した。鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるが、後になると鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのである。
 哀歌3:28-33に見られる様に「主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。
「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる」のである。イスラエルは罪を犯したが、置かれた状況から逃げ出そうとせずに、苦難を徹底して味あう道を選んだ。そこに国の再建の道が開かれた。
 私たち日本人は8月15日を神の審き、鍛錬と受け止めているだろうか。私達日本人は「哀歌」の精神を忘れて、戦後世界を構築してきている。不戦を誓い平和憲法で再出発しながら、いまでは憲法を改悪し「自衛力(軍備)を持つ、国になろう」としている。「8月15日を敗戦の日」として神が審きを与えられた日として記念したい。私達の神は「悪を善に変える力」がある。この信仰があれば、どのような迫害も苦難も、神からの鍛錬となる。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5:3-4)。信じて歩みたい。

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