[2018年06月03日 主日礼拝説教要旨]

「聖霊に導かれ祈りつつ」
マルコ1:29−39・使徒4:5−31

 ペトロとヨハネは主イエスこそ救い主であると神殿で説教し、それにより二人は大祭司たちによって捕らえられたが、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」と、脅しに屈することはなかった。解放された二人はまず「仲間のところ」へ行った。そこで彼らがまず行ったことは、「心を一つにして祈った」ということだった。キリストの教会は、生まれた時から祈ることを知っていた群れだった。ペトロとヨハネの報告を受け、皆が心を一つにして祈った時、すでに聖霊は働いていたのである。ここで祈られた祈り、教会は何を祈ってきたのか、何を祈らなければならないのか、そのことを見たい。
 第一に、彼らは天に向かって神様を見上げつつ、神様の絶対的御支配というものを思い起こした。畏るべき方は、神様しかない。主を誉め讃えること、賛美すること、それが祈りにおいて第一に為されるべきことなのである。
 第二に、彼らは旧約に預言されたメシアこそ、主イエス・キリストであることを明らかにした。イエスこそただ一人の救い主であり、その方により全ての民が救われることこそ神様の御心にかなうことであることを確信していた。彼らにこの確信を与えたのは、聖霊であり、聖書の言葉である。時代や状況の分析ではない。この確信も又、祈りの中で与えられたものなのである。
 第三に、彼らが願い求めたことは「思い切って大胆に御言葉を語ることができるように」ということだった。思い切って大胆に御言葉を語るということは、主イエスとの真実な交わりの中に生きるということである。自分の身の安全という保身よりも、主イエス・キリストとの真実な交わりの中に生き切ることを第一に願い求めたのである。この祈りの中に、聖霊なる神さまの導きがあることは明らかである。
 ペトロは、主イエスが十字架におかかりになる前に、三度主イエスを知らないと言って主イエスを裏切った。しかし、復活された主イエスは、そのペトロをもう一度、弟子として召して下さった。このペトロの体験は、復活の証人として立てられたキリストの教会の「共有された経験」となった。教会の、私達の新しい歩み方となったのである。
 祈りが終わると皆に聖霊が降り、弟子たちは聖霊に満たされ大胆に神の言葉を語り出した。祈りに応えるように、聖霊の働きが現れたのである。聖霊は私達を祈りへと導くあり方で働き、又祈りの中で働き、そして祈りに応えて働いて下さるのである。私達が祈りつつ歩むということは、聖霊の働きの中を歩むということなのである。主イエスとの真実な交わりの中に生きる者とされていくのである。大胆に御言葉を語る者にされたいと願う者である。

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