[2018年05月06日 主日礼拝説教要旨]
「悲しみは喜びに変わる」
イザヤ44:1−8・ヨハネ16:5−24
主イエスは、弟子達の弱さを知って、励まされる。主イエスは言われた「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(16:33)。平安とは悩みのないことではない。悩みの中でも満たされていることである。主イエスを信じても、不幸や災いがなくなるわけではない。現にヨハネの教会ではイエスを信じたばかりに迫害を受けていた。主イエスを信じても、病気は治らないかも知れない。苦難は襲い続けるかもしれない。悩みは依然としてある。しかし、キリストを知る人は、悩みによって打撃を受けても、やがて立ち直り、悩みが時間と共に恵みになる経験をする。何故ならば、十字架の悲しみが、やがて復活の喜びになることを知っているからである。「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。この言葉こそ、十字架で逃げ去った弟子たちを再び立ち上がらせた言葉であり、今日の私たちを再び立ち上がらせる力である。弟子たちの経験が教えるものは、説教を聞いて涙を流しても、病の癒しを見て感動しても、人はキリストの弟子にはなれないということである。自らが苦しみ、その苦しみの中に、主イエスの声を聞く体験をしなければ、人に救いはないと思える。「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」(マタイ5:4)。悲しんだ人だけが慰められ、苦しんだ人だけが報われるのである。
招詞の詩編126編はバビロン捕囚という悲しい出来事からの解放を祝った詩編である。イスラエルの民は国を滅ぼされ、自分たちが異国バビロンに捕囚になった時、自分たちの神がバビロンの神に敗けたとして嘆いた。長い捕囚の間に、彼らの将来への希望もなくした。その彼らの目の前でバビロン帝国が滅ぼされ、新しい支配者は捕囚民解放を命令する。70年の時の流れの後で、捕囚の人々が祖国に帰り始めた。それを見た詩人は夢を見ているようだと歌う。そして喜びが爆発する。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」。
十字架の悲しみは復活の喜びに変わる。瞬きの詩人と呼ばれた水野源三氏は次のような歌を残している。「三十三年前に脳性まひになった時には神様を恨みました。それがキリストの愛に触れるためだと知り、感謝と喜びに変りました」(水野源三詩集「こんな美しい朝に」から)。彼は、脳性まひにならなければキリストに出会わなかった、だから脳性まひになって良かったと言っているのである。彼の詩により、多くの苦難にある者が慰められた。十字架の悲しみが復活の喜びに変わったのである。この喜びを知る故に、私たちはどのような中にあっても絶望しない。 信じてこの週も歩んで参りたいと願うものである。