[2018年04月01日 主日礼拝説教要旨]

「復活の主に出会う」
ヨハネ20:1−18

 マグダラのマリアは復活の主イエスに出会い、根本的に変わった。本当に主イエスの復活が分かった人である。マリアは主イエスの空の墓の前で立ちつくし、ただただ泣いていた。主イエスはマリアに声をかけた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」それでもマリアは気付かずに、墓の番人だと思ってこう言うばかりでした。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」そして、ついに主イエスはマリアに、いつも声をかけていたように名前を呼ばれた。「マリア」この一声で、マリアは目覚めたのである。死の悲しみと嘆きの支配から解放されたのである。そして、いつも主イエスと話していた時のように「ラボニ」先生!と応えた。私は、この喜びのラボニとの言葉と共に、キリストの教会は立ち上がったのだと思う。復活の主イエスの教えに生き、復活の主にお仕えする者が誕生したのである。復活の主イエスは、私達に対しても、一人一人の名を呼んで出会って下さる。復活の主は、私達が捜して探して、やっと会えるというお方ではない。復活の主イエスの方から、私達を捜し求め、私達と出会って下さるのである。主イエスは私の名が呼ばれ、私と出会って下さった。この人格的、霊的出会いこそ、私達の信仰の源なのである。
 復活の主イエスに出会ったマリアは別人のように、喜びと、平安と、自信に満ちた。彼女は生まれ変わったのである。もはや死の力は彼女を支配することは出来ない。主イエスの復活の力が彼女を覆ったからである。
 私達もこのマリアと共に、「わたしは主を見ました。」「復活の主に出会いました」と証しする者として集められている。もちろんマリアのように、この肉眼で復活の主イエスを見たのではない。しかし、信仰の目を開かれ、自分と共にいて下さる主イエスと出会ったのである。私の名を呼ぶ主イエス・キリストの御声を聞いたのである。ここに、死さえも私達から奪うことの出来ない、喜びと平安と確信の根拠があるのである。
 私達は今から聖餐に与る。この聖餐に与るたびに、私達は私達の名を呼ぶ御子イエス・キリストの御声を聞き、これが私の体、これが私の血潮と、私達の前にパンと杯を差し出すキリストと出会うのである。この恵みに与れる幸いを心から喜び、復活の主をほめたたえたいと思う。今日から新しい年度が始まる。復活の主を信じて歩み始めたいと願うものである。

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