[2018年03月04日 主日礼拝説教要旨]

「十字架を背負って生きる」
イザヤ48:1−16・マルコ8:27−38

 主イエスはマルコ8:34で「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい』」。ここには三つのことが言われている。最初は自分を捨てることである。私たちは自分の思い、自分の願いを信仰の中にも持ち込む。神とは私たちを守り、繁栄をもたらしてくれる存在だと信じている。健康を望んだのに病気を与えられた時、平安になることを望んだのに災いを与えられた時、私たちは、約束が違うと抗議する。ペトロの抗議と同じである。イエスは言われる「もし、神があなたの望む通りをなさる方であれば、それは神ではなく、あなたの操り人形、単なる偶像ではないのか」。自分を捨てるとは、自分の思惑、自分の利益を捨てて、神の思いに従うことである。
 次は「十字架を負って」である。主イエスは十字架を負われた。主イエスが負われた以上、弟子である私たちも、十字架を負うことになる。その十字架とは何か、人によって違う。最後の言葉は「従う」ことである。主イエスは言われる。「私が十字架で死ぬということは、弟子であるあなたがたにも死の危険が迫ることだ。それでも従うか」。それでも従うか、弟子になることは決断が求められる出来事なのである。
 2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルが破壊され、3000人が亡くなった。米国のブッシュ大統領は被災現場に立ち、民衆に演説した「アメリカはこの死を無駄にしない。テロリストを赦さない。彼らにアメリカの力を見せよう」。群集は熱狂し、ブッシュはテロリストたちの本拠地と目されたアフガニスタンを空爆し、更にはテロリストを支援する国家としてイラクに攻め込んだ。もし、イエスがこの現場に立たれたらどう言われるだろうか。「敵を愛しなさい。何故テロリストがこのような事をしたのか、その原因を考えなさい。報復してはいけない。剣を取る者は剣で滅びる」。もし、イエスが世界貿易センタービルの廃墟に立ってこのように言われたら、同胞を殺されたアメリカの民衆は怒り、イエスに石を投げ、十字架につけろと叫ぶであろう。2000年前にイエスを十字架につけた民衆と、今またイエスを十字架につけようとする現代の民衆は同じなのだ。人が求めるのは栄光のキリストなのです。イエスに従うとは、この栄光のキリストを捨て、十字架のキリストに従うことである。それはイエスと共に石を投げられる立場に立つことである。報復がいかに愚かで実りがないか、怒りの感情がどのような悲劇を生むのかを、この事例は教える。十字架以外に救いはない。それは「自分の怒りに耐え、悲しみを担いながら、キリストの言葉に聞いていく」ことである。十字架は神の必然であった。だから、私たちも与えられる悲しみを受け入れていく、そして神がその悲しみをいやしてくださるのを待つ。それが十字架を背負って従う生き方である。

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