[2018年02月04日 主日礼拝説教要旨]
「信仰が求められている」
列王下4:18−37・マルコ2:1−12
カフェルナウムのペトロの家に四人の男に担がれて、中風の人が床に乗せられて運ばれて来た。イエスの評判を聞き、多くの人が集まり中に入れなかった。四人の男たちは床を担いだまま、屋根に上り、その屋根を壊し、穴から、この病人をつり下ろした。イエスはこの人達の信仰を見て「子よ、あなたの罪は赦される」。と言われた。そして律法学者の反発を感じ、話された「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている事をあなたが知るために、私は言おう『起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』」。中風の人の病はいやされ、床から起き上がり、歩き始めた。イエスは祭司や律法学者から異端とされ、十字架で殺されていった。イエスは自らが痛むことにより、病む者たちの痛みを共有された。「あなたの罪は赦された」という宣言は、「その罪は私が代わりに引き受ける」という決意のもとで為されているのである。
人が求めるのは信仰の報酬である。病がいやされたい、この苦しみから救われたい、だから信じる、多くの宗教はそれに応えて、病や苦難からのいやしを強調する。しかし、聖書はそうではなく「罪が赦されたこと」こそ、最大の恵みであり、体がいやされるかどうかは二次的な問題に過ぎないというのである。三浦綾子さんは多くの病と闘った。多くの体験を語られたが一つの言葉をご紹介したい。「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ。その時、文字どおり天から一閃の光芒が放たれたのを感じた。神を信じる者にとって、神は愛なのである。その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか。“神の下さるものに悪いものはない”、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」(三浦綾子「泉への招待」)。この信仰、神が共にいてくださることこそ幸いなのだという信仰こそ、聖書の信仰である。こうした真摯な言葉、熱心な訴えは、時代を超えて、受容される。言葉には癒しの力がある。イエスの言葉も生きている。「あなたの信仰が、あなたの熱心が、あなたを救った」、この言葉が自分の体験になれば、それは力を持つのである。主イエスは「その人たちの信仰を見て」行為される。イエスの前に人を運ぶ、その先は、赦しと癒しの権能を持たれるイエスにお委ねする。教会は多くの癒しの業を行うことが出来ることを覚えたいと思う。私達の信仰が求められているのである。