[2017年12月03日 主日礼拝説教要旨]

「希望の主が来らる」
イザヤ51:4−11・マルコ13:21−37

 今日から待降節(アドベント)を迎えた。クリスマス、主イエス・キリストの誕生日である。そのキリストを私達は罪からの救い主、解放者として迎える。迷いと悩みの闇の中に住んでいた私たちに光がさした、その光の誕生を待ち望む、と同時に再臨の恵を覚える、その時が待降節である。この闇とは何か、解放とは何かを、イザヤ書から聞きたい。
 紀元前587年、イスラエルはバビロン帝国によって国を滅ぼされ、首都エルサレムは破壊され、主だった住民は捕虜としてバビロンに連れて行かれた。
 約50年後、神はバビロンに捕囚となっていた民をエルサレムに連れ帰るために、一人の指導者を立てられた。「主のしもべ」と呼ばれる人である。彼はバビロンでの生活に満足し、祖国エルサレムに戻ろうとしない人々を説得し、故郷に連れ帰った。しかし、その過程で、多くの嘲りと迫害を受けた。「主のしもべの歌」と言われるイザヤ50:5-6は次のように語る「主なる神は私の耳を開かれた。私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」。民衆からの突き上げの中で、主のしもべは重い病にかかり、失意の内に死んでいった。そのしもべの死を歌った歌がイザヤ53章である。エルサレムに帰還した民は、やがて神殿再建に取り組み、エルサレムは徐々に往時の繁栄を取り戻した。その時、「主のしもべ」を思い起こし、彼が命と引き換えに自分たちをエルサレムまで連れ帰ってくれた事をイスラエルは感謝するようになった。後に主イエスの弟子達は主イエスの十字架の意味をここに見出した。主イエスは十字架に架る前に弟子達に「天地は滅びるが私の言葉は決して滅びない」「目を覚ましていなさい」と言われた。聖書は私たちに約束する「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ16:16)。この言葉の真実は、私たちが現在の生活を崩され、自分たちがどのような闇の中に暮らしていたかがわかり、その闇から神が私たちを救い出して下さったことがわかった時に、初めて理解できる。今の私たちは強い。職をなくしても、家を失っても、子どもが非行に走っても動じない。主が私たちを生かし、導いて下さる事を信じているからである。「信じてバプテスマを受ける者は救われる」、この事を私たちは真心から証し、その通りですと言いたい。私達は、この主イエスの救いの決意、私達を守り、支え、導こうとされる御心を信じたい。この主イエスに全てをお委ねすれば良い。この主イエスの守りと支えと導きを信じ、主の再臨を待ち目を覚まして、忠実な僕としての歩みを主の御前に為してまいりたいと、心から願うものである。

トップ説教要旨 > 2017年12月03日 主日礼拝説教要旨