[2017年11月05日 主日礼拝説教要旨]

「顔を上げて歩む」
創世記4:1−16 マルコ7:14−23

 カインは神様に対して顔を伏せ、ついに弟アベルを殺してしまった。カインが顔を上げていれば、神様に向かって訴え、祈り続けていたのなら、決してこうはならなかったと思う。
 私達の生活において、理不尽と思える現実がある。しかしそれが神様の御前に立ち続ける中で、意味が変わってくる。理不尽と思える現実の中で、私の思いを超えた神様のあわれみの御手が働いていることに気付いていくものである。ここに、新しく生き直していく私達の道がある。
 カインは、罪を支配するのではなく、罪に支配されてしまったのである。私達は皆、カインの子孫なのである。自らの罪を支配するのではなく、罪に支配されてしまっていた私達である。しかし、主イエス・キリストに結ばれることによって、罪の支配からキリストの支配のもとに生きる者とされたのである。聖書は告げる。ローマの信徒への手紙6章11節「あなた方も自分は罪に死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」14節「罪は、最早、あなた方を支配することはない。」私達は洗礼を受け、キリストに結ばれた。だから、キリストの支配の中に生きる者とされた私達は、最早、罪の支配の中に生きる者ではなくなったのである。最早、神様に向かって顔を伏せることはない。嘆きの中で、なおキリストに結ばれた者として、神様を呼び続ける者とされているのである。
 私達は、それぞれの立場、家庭において、人には言えない課題・問題をかかえているものである。何の問題もない人、家などない。そして、その問題は神様のもとに持っていくしかない。神さまによってしか解決されないからである。神様は全てを知っておられる。そして、必ず道を開いて下さるのである。私達は自らの中にあるカインの心と戦い、神様に向かって顔を上げ続けるのである。顔を伏せてはいけない。祈りの中でしか、私達は自らの愛の交わりを造り変えていくことは出来ないからである。祈りの中でしか、自分自身が変えられていくこともないからである。神様に向かって顔を伏せた時、祈ることを止めた時、私達は罪の支配に堕ちてしまうからである。
 私達は、今日、心を一つにしてただ一つのことを祈りたいと思う。私達の一人一人が、それぞれの家族が、罪の現れる場から、神様のみ業が現れる自分と場、神さまの栄光が現れる自分と場へと造り変えられていくようにと祈りたいと思う。真っ直ぐに顔を神様に向けて、顔を上げてこの週も歩んで参りたいと願うものである。

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