[2017年09月03日 主日礼拝説教要旨]

「キリストと共同の相続人」
マタイ13:24-43 ローマ8:12-25

私達はこの地上での歩みにおいて、”霊”を与えられ、神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るようにされ、神様との愛の交わりを与えられている。このことは、私達に救いの完成を確信させるが、この救いの完成の約束を、17節で「キリストと共同の相続人」という別の言葉で表している。
 神様の本当の子は、神の独り子である主イエスただ一人である。しかし、神様は私達に聖霊を与え、神様の養子として迎え入れてくださった。そのしるしが、神様を「父」と呼べることであり、神様との愛の交わりを与えられているということである。そしてそれは、私達が主イエス・キリストと同じ良きものすべてを神様から受け取ることが出来るということを意味している。子なる神である主イエス・キリストは、父なる神様から何を相続しておられるのか。
 第一に挙げるべきは、永遠の命である。主イエス・キリストは十字架にお架かりになり、三日目に墓の中から復活され、私達を支配している死を打ち滅ぼされて、復活の命、肉体の死で終わることのない永遠の命を持っておられることを証明された。私達は、このキリストの命、復活の命、永遠の命を与えられる。
 第二に、全き愛というものを挙げることが出来る1。主イエス・キリストは、神様を愛し人を愛して、御自身の命を十字架の死において捨てられるほどに、その愛を全うされた。私達は、自己愛というものから、本当に抜け出せない。それは本能と言っても良いほどに、私達の心の奥底まで染みついている。それは、国と国との間でも同じである。竹島や尖閣諸島において起きております領土問題というのは、国家としての自己愛の最たる現れである。この領土問題というのは、主イエス・キリストが再び来られて、私達が新しい人として、キリストと同じ相続人として、全き愛を互いに与え会う日まで続くのだろうと思わされる。この世界の争いのほとんどすべては、この自己愛が互いにぶつかり合う所で生じると言っても良い。それが、やがて乗り越えられる日が来るのである。終末においてである。キリストと同じ愛、全き愛に互いに生きるようになるからである。
 私達は、この地上の歩みにおいて、何が正しく何が間違っているのか、何が御心に適い何が御心に適わないのか、いつも正確に判断できるわけではない。しかし、主イエス・キリストはそのことをいつも正しく判断された。御自身が十字架にお架かりになった時も、ブレることはなかった。救いの完成の日には、私達は主イエス・キリストと同じように、全き智恵と知識を与えられることになっている。キリストと似た者にされる。キリストと共同の相続人にされるということである。私達もキリストと共同の相続人として、この希望の中、与えられたこの地上の馳せ場を、天の御国に向かって進んで参りたいと願うものである。

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