[2017年08月06日 主日礼拝説教要旨]

「憐みの福音」
マタイ6:9-13 コリントII5:11-6:2

使徒パウロは「キリストは私のために死なれた、そのことをキリストに出会って知った。」と言う。この常軌を逸した神の愛を知る時、人はもはや平気ではいられない。だからパウロは言う「その時、人はもはや自分のために生きるのではなく、自分のために死んで復活された方のために生きるのだ」(5:15)と。それゆえに、パウロは「私が伝えるように委ねられたのは和解の福音である」という。人間の和解は、妥協による和解である。しかし、神が提示してくださった和解は神の側からの一方的な行為である。御子イエス・キリストを十字架による贖いの死を遂げさせることで為された。人はそれを感謝して受けるだけで良い。パウロは神に対する反逆者だった、神はそのような私を滅ぼすことをせず、キリストの愛が私を捕らえるまで、その愛を私の前に差し出された。その愛を知って、私は存在の根底から変えられたのだという。父なる神の一方的な愛、私達の罪を御子イエス・キリストの十字架により贖うことにより与えられた「憐みの福音」を与えられと言うのである。
パウロは、私が伝えるように命じられた和解の福音とはこのような福音なのだ。だから、あなた方に勧める「神と和解させていただきなさい」(5:20)というのである。神と和解した者は人とも和解する。あなた方は激しく私を批判する。もし、あなた方が私を憎んでいるならばあなた方は神と和解していない。だからお願いする、神と和解しなさい、神が道を開いて下さったのだ、だからその道をうけいれなさい。とパウロは言うのである。
イザヤ49:8−9「主はこう言われる。私は恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。・・捕らわれ人には、出でよと、闇に住む者には身を現せ、と命じる」。パウロはイザヤ書を引用して、コリントの人々に自分の思いを伝えた。「神の救いの業がイエス・キリストを通して完成された。だから今はこの恵みを、ただ心を開いて受ければ良いのだ。あなた方はキリストが私を用いてお書きになった手紙なのだ。それは墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に書き付けられた手紙なのだ。あなた方こそ私の作品、私の推薦状なのだ。だからあなた方に言う、神の和解を受け入れなさい。今日を恵みの時、救いの日として受け入れなさい」というのである。
三浦綾子の小説「愛の鬼才−西村久蔵伝」により、神さまの恵みは拒むと否とに関わりなく一方的に注がれる。これが神の愛であり、神の愛は信仰者を通じて私たちに注がれることを聞いた。私達はそれを受けるだけで良いのである。「神と和解させていただきなさい」、この言葉を「憐みの福音」として、今日、私たちは、神様からの贈り物として頂きたい。「憐みの福音」に感謝しつつ、日々歩んで参りたいと願うものである。

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