[2017年07月02日 主日礼拝説教要旨]

「献げる思い」
マタイ5:21−26・コリニ8:1−15

パウロは数回にわたり、コリント教会に対し、エルサレム教会への献金要請の手紙を書いた。その手紙の一部が、コリント二8-9章として残されている。
コリント教会はパウロからの献金要請に反発した。何故自分たちが海の向こうのエルサレム教会を助けなければいけないのか、エルサレム教会には世話になっていないし、捧げる余裕もない、と言う反発であった。
そのコリントの人々にパウロは書く「あなたがたはすべての点で豊かなのですら、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」(コリント二8:7)。献金は、自分の持っている物を、その財力や資力に応じて差し出す行為である。その結果貧しくなるが、それで良いではないか。キリストはあなたがたのために死んで下さった。キリストを通して神の子とさせていただく富をいただいた私たちが、どうして貧しい兄弟を見て、見ぬ振りが出来ようか。主が貧しくなって下さったのだから、私たちも貧しくなろうではないか。献金は信仰の行為なのだとパウロは言うのである。そして、さらに言う。必要なものは主が与えて下さる。今、あなたがたが生きるために必要なもの以上をいただいていれば、それを主に捧げなさい。多く持つことにより、私たちの心の中に惜しむ気持ちが生まれる。宝のあるところに心もある。必要以上のゆとりは腐ったマナに成りかねないのだ。必要以上に持っているものを、持たない人と分かち合う行為が献金なのだ。キリストは私たちを愛するあまり、貧しくなって下さった。だから、私たちも他者のため、教会の為に貧しくなるのである。若しあなたがたがエルサレムの兄弟のために心を痛めないなら、あなたがたの教会は教会でなくなる。共に集まって礼拝を続ける集団は残っても、それはもはや教会ではない。そこにはキリストがおられないと言っているのである。パウロはコリントの教会に献金を勧めて言う。「捧げなさい。献げる者は富むからだ」。多く蒔いた者は刈入れも多く、少なく蒔いた者は刈入れも少ない。農夫が種を蒔く時、その種を惜しいとは思わない。なぜならば、蒔いた種の何十倍、何百倍もの収穫があることを知っているからだ。心から喜んで献げる者には、神が何十倍、何百倍にして返して下さる。今捧げるものが与えられていることは恵みなのだ。その恵みを他の人々と分かち合うことによって更に恵まれる。献金を通して豊かになりなさい。恵みに富みなさい。献金は裕福だから、お金の余裕があるから出来るという問題ではない。自分の体の一部に等しいお金を献げるとは、自分自身を献げる行為なのだ。お金を通してあなたの信仰が表されるのである。献金は信仰の行為であり、自分を献げる行為なのである。献げたい心が満ちた時、会堂改修、建築等私達の教会の様々な将来計画が実行出来る。心を合わせれば、不可能なことではない。私達の信仰心を、献げる心を養いたいものである。

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