[2016年12月04日 主日礼拝説教要旨]

「聖書の言葉は実現した」
イザヤ59:9−21ルカ4:14−30

 4章18節−19節は、主イエスが、イザヤ書61:1-2の預言を、当時の人々の困窮に焦点を当てて語られている個所である。19節の「主の恵みの年」はヨベルの年を指す。古代のイスラエルでは、50年ごとに債務が免除され、奴隷は解放される習慣があった。その時、角笛(ヨベル)が吹かれたため、この名がついた。今、その主の恵みの年が実行され、債務の返済に苦しむ者には債務免除が告げられるとイエスは言われたのでる。正にここで「解放」が宣言されている。苦しむ人々を解放する為に、父なる神は主イエスに油を注いで聖別し、ここに遣わされたと主イエスは言われているのである。
 そして21節「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と主イエスは言われた。人々はその言葉に感動した。主イエスは人々にこの様に抑圧からの解放を告げられた。しかし、多くの人々にとって救済とは社会的・政治的救済であった。ユダヤはローマの植民地として苦しんでいた。人々はメシヤが現れてローマからユダヤを解放してくれることを願っていたのである。主イエスがそのようなメシヤでないことがわかると、人々はイエスを十字架につけて殺してしまったのである。
 歴史において、フランス革命に見られるように、武力による革命によって変るのは支配者だけであり、抑圧からの解放はない。社会的・政治的救済は一時的かつ相対的なものに過ぎない。社会的・政治的救済は無意味ではないが、人の心が変えられなければ、人間の霊的解放が為されなければ、何にもならない。主イエスは霊の命を与えようとされたが、人々は物質的なパンを求めた。イエスは神の国を与えようとされたが、人々は地上の王国を望んだ。人々の驚嘆と尊敬の中に始まった主イエスの宣教が、三年を経ずして、人々の呟きと憎悪の中に、十字架の死をもって終るに至ったのはこの為である。
 さて「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と主イエスは言われた。私たちは自分たちが捕らわれており、目が見えず、圧迫され、債務を負っていることを本当に知り、それからの解放を求めているのだろうか。私たちは本当にイエスが宣言されたように神の国は来た、解放の時は来たと受け止めているのか。もし、そうならば何故私たちから応答の行為が出ないのだろうか。
 ルカ4章のイエスの言葉を文字通り受け止めて行動した人々がいる。ジュビリー2000の運動を推し進めた人達である。ジュビリーとはヘブル語でヨベルの年を意味する。西暦2000年、即ちイエス生誕2000年はヨベルの年、主の恵みの年だったのである。イギリスの聖公会を始めとするキリスト教諸団体が協議して、発展途上国の累積債務免除運動を主の恵みの年の具体化として始めた。国連や先進諸国に働きかけもした。99年のケルンサミット翌年の沖縄サミットでは貧困国のためのエイズ基金の設置が合意された。この基金の創立により、多くの命が救われるようになった。祈りが行為となったのである。まさに「聖書の言葉は実現した」のである。神の言葉は無力ではない。今日、私達が問われることは心から主イエスの降誕を待ち望んでいるのか、どのように証ししていくのかということである。本当に神の国の到来を祈り求めているのか。それが待降節、アドベントに私たちが受け止るべきメッセージである。

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