[2016年11月06日 主日礼拝説教要旨]

「悔い改めにふさわしい実」
創世記13:1−8・マタイ3:7−12

 今朝は召天者記念礼拝として、先に天に召された方々を覚えて、礼拝をささげている。この方々との、この世での交わりは何と意義深いものがあったことだろうか。この方たちは今、救いの御業に与り天に召されて、復活の時を待たれている。今朝私達はこの方達が残された信仰の旅路、この世での深い交わりに思いを馳せっつ、マタイ3:7−12により御言葉に聞きたい。
 洗礼者ヨハネは主イエスの道備えをする者であった。ヨハネにとって大切なのは、ただ神様である。この方の御前に正しく歩む。神様の御心をきちんと伝える。それだけがヨハネにとって大切なことだった。しかし、ファリサイ派、サドカイ派の人達は、目に見える権威「我々の父はアブラハム」を持ち、それを頼りにしていた。ヨハネは、実に人間の心の奥底にある「自らを誇る」という罪を暴いたのである。この罪は、ファリサイ派やサドカイ派の人々の中にだけではなく、私達の中にもある。この「自らを誇る」ということを捨て去る。それが悔い改めるということであり、悔い改めにふさわしい実ということなのである。私達に求められるのは悔い改めにふさわしい実、すなわち信仰者としてふさわしい生き方をするということなのである。
 それではどの様に生きるべきなのか?自らの罪を自覚し、罪人として神様の御前に立って罪の赦しを求めることである。洗礼者ヨハネはそれを水による洗礼を授けることで表した。主イエスの洗礼は、「父と子と聖霊の名によって」授けられた。洗礼によって主イエスと結ばれる、神の子として新しく生まれ変わる。聖霊なる神が私達の内に宿り、御国に向かう私達の歩みを導いてくださる。それが、私達が主イエスの洗礼に与って起きるのである。
 自分は本当に聖霊と火による洗礼を受けたのだろうかと不安になる人もいるかもしれない。何故なら、私達は今も罪を犯しているからである。私達は、自分の罪を知り、これと戦う者となっている。しかし、そこで私達は神様に赦しを求めるのである。私達にとって一番大切なことは、神様に仕え、人に仕え、神様を愛し、人を愛して生きていくことである。これら一つ一つが、私達が受けた洗礼が水による洗礼ではなく、聖霊と火による洗礼であることの確かなしるしなのである。自分の罪を悔い改めることなく、自分の罪の上に胡座をかいて平気でいるということは罪である。神様の御前に裁かれる者としてある自分を忘れて生きるということである。それは罪深いことである。聖餐の時、主イエスにより自分が何を求め、どこに向かって生きている者であるかを思い起こす。その時、私達は悔い改めないではいられない。「主よ、憐れみ給え。」と祈らないではいられない。悔い改めにふさわしい実を実らせて行きたいものである。

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