[2016年10月02日 主日礼拝説教要旨]

「御声により復活する」
ヨブ42:1−6・ヨハネ11:28−42

 マリアは主イエスが呼んでいるとの知らせを受けると、すぐに立ち上がり、主イエスのもとに行った。主イエスが来ている。主イエスが自分を呼んでいる。このことがマリアを立ち上がらせるのである。私達もそうである。主イエスが私の所に来てくださった。私を呼んでくださっている。このことに気付くなら、私達は立ち上がれる。どんな嘆きの中でうずくまっていようとも、私達は立ち上がれる。何が起きるのか、何を主イエスがしてくださるのかは分からない。しかし、主イエスが来てくださり、私を呼んでくださった。だったら大丈夫。そう信じることなのである。
 週報に、洗礼・転入を希望される方は牧師までお申し出ください、という案内を記している。どうか、この案内、自分に向けられた招きとして受け取っていただきたいと思う。主イエスの呼びかけとして聞き取っていただきたい。そして、そこから立ち上がって、主イエスのもとに来ていただきたい。そう心から願い、祈って記した。
 主イエスは共にいてくださり、私達のすべてを御手の中に置いてくださっている。ただ、それが私達には見えない。それは、私達の不信仰と言っても良い。ラザロの死が助かるようにとのマルタ、マリアの願いは聞かれなかった。しかし、主イエスはその時も、マルタと共に、マリアと共に、そしてラザロと共におられた。その悲しみを共にして「人の子」として涙を流された。これは、死に勝利される主イエスが、愛する者を失った悲しみの中にいる者に対して、そんな悲しみは無意味なこととして退けられたのではない。主イエスは確かに、全能の父なる神様の独り子である。しかし、人となられた。人の弱さを御自身のこととして引き受けられたのである。主イエスはこの時、全能の力をもって死に対峙され、同時に、愛する者を失った人の悲しみを御自身のものとして引き受けてくださったのである。私達は、愛する者の死そして自分自身の死に際して、この死を打ち破られる主イエスが共にいてくださること、そして、私の悲しみ、私の嘆きを主イエス御自身が共に引き受けてくださることを知らなければならない。この主イエスが共にいてくださるが故に、私達はどんな状況の中でも歩み続けることが出来るのである。
 主イエスはラザロを復活に導いた。このラザロの復活の出来事は、三つの意味を私達に示している。第一に、主イエスは死を打ち破ることの出来る力を持っておられること。第二に、主イエスの復活の出来事への備えを弟子たちに与えた。そして第三に、私達もまた、やがてこのように復活するのだということを示したのである。私達は主イエスが再び来られる時に復活する。主イエスが再び来られる時、主イエスの御声によって自分の名が呼ばれ、出て来なさいと告げられる声を聞くのである。その声と共に、私達には復活の体が与えられ、共々に復活する。私達は、その日を待ち望む者として召された。恵の中にある。その恵みを多くの方々と分かち合いたい。そこに幸せへの道がある。日々主の御業にお仕えして行きたいと、心から願うものである。

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