[2016年09月04日 主日礼拝説教要旨]

「良い羊飼いになる」
エレミヤ50:1−7・ヨハネ10:1−21

 今朝の聖書ヨハネ10:1−21。主イエスは二つの言い方で御自身のことを語っておられる。一つは「わたしは羊の門である。」、もう一つは「わたしは良い羊飼いである。」である。この二つの言葉は、どちらも1〜5節の主イエスが語られたたとえ話の中に出て来る。
 このたとえ話には、羊と羊の囲い、羊の囲いに出入りするための門、盗人と強盗、それと羊飼いが出て来る。羊は私達、羊の囲いは神様の救いに与ることを意味している。そして、盗人と強盗だが、これは神様の救いから羊を引き抜いて自分のものにしてしまう人のことであり、ファリサイ派の人々のことを指している。そして、この門と羊飼いが主イエスを指しているわけである。
 主イエスは、9節で「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」と明言された。自分の力で良い人になって救われようとしても、それは出来ないことなのだということなのである。自分の力と業、信仰心といったもので救いに与ろうとする人や、それらを人にも求める人は、盗人であり強盗だとさえ言われたのである。主イエスこそ私達が神様の救いに与る門、この門以外に、神様の救いに与る道はない。神様の羊は、主イエス以外の者の言葉には従わないのです。そのことが、主イエスだけが私達をまことの救いへと導いてくださる羊飼いであるということに繋がっていくのである。このように、門と羊飼いというのは、その内容において結びついている。主イエスを信じることによってしか救われない。だから、主イエスの導きにしか従わないということなのである。
 神様は全能であられる。しかし、その全能の神様が私達を救いに至らせるために執られた手段は、御子を十字架にお架けになるという、まことに痛ましい手続きによった。ここに愛がある。主イエスが良き羊飼いであるというのは、羊のために命を捨てるという、まさに命がけの愛をもって御自身の羊を守り、導いてくださったからなのである。このことを知った私達は、どうしてこの良き羊飼いである主イエス以外の声に従うことが出来るだろうか。しかし、教会の歴史を見ると、教会の中に主イエスの声以外のものが入り込み、まるで主イエスの声であるかのように偽装して教会を導くということがしばしば起きて来た。それは、その時代の思想であったり、その時代の権力者の声であったりした。そしてそれは、いつも教会を間違った道に導いた。私達は、主イエスの羊なのであって、それ以外の声に聞き従ってはならない。14節に「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」とある。牧師や信徒の個性や能力によって教会が建つことはない。そうではなくて、牧師と教会員が、共に同じ主イエスの御声を聞いて、これに従って生きる。ここに、主イエスの羊の群れとしての教会が建っていくのである。ペトロでさえ良い羊飼いではなかった。ペトロが弱かったからこそ後に続く牧師が励まされたように、牧師が弱いからこそ信徒もまた励まされるのである。人が弱い時にこそ神が働いて下さる。足らない所は補って下さる。だから限界を持つ牧師と信徒が構成する教会が、その限界を打ち破る力を持つのである。良き羊、羊飼いになる為に日々歩んで参りたいと願うものである。

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