[2016年8月7日 主日礼拝説教要旨]

「生きた水を受けて」
ヨブ記28:12−28ヨハネ7:37−52

 今朝私共に与えられた主イエスの御言葉は、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」という招きの言葉と、「わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」という約束の言葉である。
 主イエスはまず、自分を信じるならば聖霊がその人に注がれると約束してくださった。聖霊は生きた水である。私達一人一人を生かす水である。私達を生かす水としての聖霊の実は、「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であるとガラテヤの信徒への手紙5章22〜23節に記されているが、信仰、希望、愛、自由といったものも挙げることが出来る。衣食住の充足、親子、夫婦、兄弟、友人等、人と人との関係がうまくいかなければ、生きること自体がつらくなる。明日への希望、自由がなければ、人は今を生きることが出来ない。主イエスは、わたしを信じるならば、その人が本当に喜んで生きていくことが出来る、その人を内側から生かしていく力を与える生きた水としての聖霊を与えると約束してくださったのである。
 次に、この生きた水は主イエスを信じる者から川となって流れ出ると約束されている。主イエスを信じる者は、主イエスから聖霊を注がれ、聖霊の実としての善きもので満たされる。私達はここ教会で御言葉を受け聖霊を受けた者としてそれぞれの場へと遣わされていく。まさに川の流れのように、この教会からそれぞれの場へと聖霊の息吹が流れ出していくということなのである。
 大事なことは、この約束に与る者にはただ一つ、主イエスの招きに応えるということだけが求められている。その招きとは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」という招きである。フアリサイ派はその招きに反した。当初ニコデモも理解できなかったが、十字架の時に信仰告白をしている。私達も、主イエスのところに来るのなら、主イエスの言葉を聞き続けるなら、この礼拝に来て主イエスの言葉に耳を傾け続けるなら、必ず生ける水としての聖霊を受けることになる。大切なことは、主イエスのところに来るということである。主イエスの言葉を聞き続けるということなのである。であれば、私達は必ず生ける水としての聖霊を受け、さらにその水が川となって外に流れ出し、私達の周りの人々を愛と平和と喜びで満たしていくことになるのである。この主イエスの約束を信じ、招きに応えて、この一週もここから歩み出していきたいと願うものである。

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