[2016年7月3日 主日礼拝説教要旨]

「み言葉を聞いた者は生きる」
ミカ7:14−20・ヨハネ5:19−30

 主イエスは安息日に病人を癒された。しかしユダヤ人は律法違反として反感を持った。しかし、神様のあわれみの心と一つになって病人をいやすことが、どうして律法違犯になるのか。神様のあわれみの中で、私達は安息日も生かされているのではないか。だからわたしも父なる神と同じように、安息日であっても働くのだ。そう主イエスは言われたのである。この言葉を聞いたユダヤ人たちは反発した。今日の聖書は御自身が神と等しい者であるとはどういうことなのか、そのことをお語りになっている。
 神様と一つにされている主イエスは、神様の力、権能をも与えられている。父なる神様が死者を復活させて与える命、永遠の命を誰に与えるか、それをお決めになる権能が与えられているのである。では、主イエスは誰に永遠の命を与えるというのだろうか。24節にあるように、主イエスが神様と一つであるという御言葉を聞いて、それを受け入れて神様を信じる者になるということである。逆に言えば、主イエスを神として受け入れない者は主イエスを敬わず、それは父なる神様を敬わないことであり、永遠の命を得ることは出来ず、裁かれるということなのである。
 25節に「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」と現在形で言われている。その声と共に、私は復活する。そのことを私は単純に信じている。しかし、ここでは、それが「今やその時だ。」と言うのである。
 私達は主イエスの声を聞き、主イエスの言葉を信じ、主イエスというお方を神と信じて救われた。安心して神様に祈れるようになった。礼拝に集うことが嬉しくなった。喜んで何か人のためになることをしたいと思うようになったのである。「起きよ。」「わたしに従いなさい。」「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」この御声を聞いて、この御声に従う者とされ、私達は新しくされた。戦乱や災害が続くこの世界、私たちは暗闇の中にくず折れて、信仰も揺さぶられるかもしれない。しかし、神ご自身が独り子としてこの世に来られた。この礼拝のたび、主の御言葉が語られるたびに私達は起きる。この礼拝の場において、死んだ者から永遠の命へと移る。この救いの出来事が起きているのである。この礼拝の場こそ、今と永遠とを切り結ぶところなのである。私達は、今朝、「新しく生きよ。」との主イエスの御声を聞いた。永遠の命に生きる。救いの恵みに生きるのである。

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