[2016年6月5日 主日礼拝説教要旨]

「信じる者になる」
イザヤ63:7−19・ヨハネ3:22−36

 預言者イザヤは、神様を見上げて、「あなたが天から降って来てくださって、この地に満ちた罪を、不正を裁いてください。あなたの憐れみを、あなたの真実を直接示してください。」そう願い、訴えた。神はこのイザヤの祈りを聞き、救い主、主イエスを私達の為に遣わされた。主イエスの到来を指示したのは、洗礼者ヨハネである。ヨハネは、「地は地であり、地から出た者、地に属する者は、天を語り得ない。そして、天から来られる方は、御自身が直接見たこと、直接神様から聞いたことを語る。しかし、人々はこの方の語ることを受け入れない。」と言う。「天から来られた主イエスは、神の独り子であられるが故に、神様の御心を知っておられ、だからそれを語る。しかし、それは地に生きる者にとっては、さっぱり何のことか分からないので、受け入れることが出来ない」と言うのである。
 私達は天のこと、神のことがよく分からない。受け入れようがないこともある。これが、この世で主イエスが来られて二千年の間続いていることである。地に属する者は大部分の者が天のことが分からず、主イエスのお語りになることが分からず、それ故これを受け入れらえないものなのである。だったら、私達はどうして主イエスの語られたことを受け入れ、信じたのか、信じているのか。これこそまさに奇跡と言うべきことなのである。
 主イエスが語られた言葉は、聖霊の働きと共にあった。聖霊が働く時、言葉は、神の言葉として私達に臨み、生ける神様の御心を示し、分からせ、受け入れさせてくださるということなのである。自分の力や能力で神様の言葉が分かるということは起き得ない。本来分かるはずがないことが分かり、受け入れられ、信じられる。それは、ただ聖霊なる神様のお働きによるとしか言いようがないのである。
 同じ言葉を聞いても、受け入れる人と受け入れない人が出る。現実である。神様の言葉を私達が受け入れ、信じられるというのは、まさしく聖霊なる神様の御業である。
 私達は皆、二つの道の分岐点に立たされている。主イエスに愛されている。主イエスが共に居られるという喜び、安定した気持ちで日々歩むことが出来る。これが信じる者の歩みである。信じる者になりたいものである。

トップ説教要旨 > 2016年6月5日 主日礼拝説教要旨