[2016年3月6日 主日礼拝説教要旨]

「香油を注がれた者」
サムエル上10:1−9・ヨハネ11:54−12:11

 主イエスはラザロを復活させられた。人々は遂に救い主、メシアが来たと期待し、大騒ぎになった。ユダヤの当局者たちは、反ローマの狼煙が上がるものと心配し、緊急に最高法院の会議を開き、主イエスを殺すことに決めた。さらに、ラザロをも殺すことを決めた。
 主イエスへの期待はラザロの復活にあるから、ラザロをも殺せば、ラザロの復活という出来事自体、人々の記憶から消すことが出来る。すべてが丸く収まる。それが、祭司長などのユダヤ当局者たちの考えだったのである。
 こうした緊迫した状況が記されている二つの記事に挟まれるようにしてあるのが、マリアが主イエスにナルドの香油を注いだという記事なのである。主イエスは、過越祭に合わせてエルサレムに上るために、ベタニアの村に来られていた。主イエスはこの時既に、過越の祭りの時に自分が十字架に架かるということを覚悟しておられたと思われる。ここで食事の時ラザロの姉妹マリアから香油を注がれたのである。主イエスの弟子のユダは「なぜ貧しい人々に施さなかったのか。」と非難した。主イエスはここで、ユダの言っていることを否定しない。8節「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるのだから、いつでもそのようにしてあげたら良い。してあげなさい、と言われるのである。しかし、マリアを非難しなくても良い。何故なら、7節、この人は「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」と言われたのである。ここで大切なことは、マリアのしたことは主イエスの葬りのためであったということである。この時マリアだけが、主イエスの十字架の死を受け止めていた。そして、自分に出来る精一杯のことをしたのである。マリアの出した結論は、自分の持っているすべてを主イエスにささげることだったのである。これが信仰の決断というものである。
 マリアは主イエスしか見ていない。献身とはそういうものである。人間の賢さにとどまる限り、ある意味では愚かとも思える神の深い愛は分からない。神様は、このマリアの行為を良きものとして受け取られた。そして、マリアが思っていた以上の意味を与えてくださった。それは、これを主イエス・キリストのまことの王としての即位式としてくださったということである。救い主、メシア、キリストという言葉は、元々「油注がれた者」という意味である。旧約において、神様が祭司、王、預言者として選んだ者には油を注いだ。サムエル記上に記された通りである。主イエスは神様によって聖霊の油を注がれたまことの王、まことの預言者であった。しかし、実際に油を注がれたのは、この時であった。
 マリアがこのナルドの香油を主イエスに注いだ時、「家は香油の香りでいっぱいになった。」とある。この献身の香りが満ち満ちている所、それがキリストの教会なのである。
 この後聖餐に与る。パンとぶどう液の香り、これはキリストの十字架の献身の香りである。キリストの教会はこの香りと共にあり続ける。このキリストの香りを放つ者として私達が召され、油を注いで頂いた。私達もまた、油注がれた者としてキリストの十字架の献身に自らの献身を持って応え、この教会を、この町を、この世界を、キリストの香りで満たしていきたいと心から願うものである。


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