[2016年1月3日 主日礼拝説教要旨]

「言葉は私達に宿る」
イザヤ40:25−31・ヨハネ1:14−18

ヨハネ14節「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。
神が人となって来られた、その人こそナザレのイエスだとヨハネは告白している。
「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)とある。これがヨハネの信仰告白であることが分かれば、その意味は伝わってくる。ヨハネはイエスの弟子として、3年間イエスと生活を共にした。その間、彼は多くの主イエスの奇跡、為せる業を見、復活の主を見た。彼にとって、イエスはもはや人ではなく、神としか思えなかった。神共に居ますのである。
2015年を振り返ると、シリア難民が多く生まれた。闇が生まれた。この世を闇にしているのはサタンではなく、自分の栄光を求める人間の罪なのである。だから、この罪が取り除かれない限り、世の闇は無くならない。だから、主イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:39)として、来られたのである。
だが闇は依然世を支配している。どの様に生きるべきだろうか。御言葉を聞き心に宿すことである。感謝と賛美と祈りをもって、「御言葉を宿し」つつ、この一年も主の御前に歩んでいきたいと願うものである。

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