[2015年12月6日 主日礼拝説教要旨]

「主の言葉を求める」
イザヤ55:1―13・ヨハネ5:31−47

 第二イザヤはイザヤ40:8「私達の神の言葉はとこしえに立つ」40:11「主は羊飼いとして群れを養い、・・小羊をふところに抱き・・・」救い主はダビデの系譜から現れると告げ、55:3−5節「契約を結ぶ。・・・慈しみのゆえに」諸々の国々に伝えられると語る。
 ここで語られていることは、もはやバビロン捕囚からの解放の恵みという歴史的出来事を超えている。それは、明らかに罪の赦しとキリストにある神との和解の恵みを語るものである。時代を超えて今の私たちに直接語り掛ける、神の祝福への招きがある。第二イザヤはその様な善き訪れがあることを語った。そのことが実現したのが600年後の主イエス・キリストの誕生の出来事である。
 ところが、ファリサイ派を中心としたユダヤ人達は、律法を守ることを先決として、主イエスを救い主、メシアとして受け入れようとはしなかった。ヨハネ5章31節〜47節から聞きたい。ヨハネによる福音書において主イエスが栄光を受ける時というのは、十字架にお架かりになる時である。これは、おおよそ私達が通常考える栄光の姿とは正反対の姿である。主イエスは人々から罵られ、嘲られ、十字架に架かられた。しかし、それが主イエスが栄光を受けるときだったのである。主イエスがもし、人からの誉れ、人からの栄光を求めたのならば、主イエスは決して十字架にお架かりになることはなかった。そして、私達は誰一人として救われることはなかったのである。私達が本当の栄光を求めるならば、それはこの主イエスの十字架と結ばれるということであることを知らなければならない。
 神様が私達に与えてくださる栄光は、神の子としての栄光である以上、この主イエス・キリストが与えられた栄光と一つにされるということなのである。私達に与えられる栄光のしるしは罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命である。それは、この世の誉、栄光ではないのである。
 主イエスは自分を殺そうとするユダヤ人たちに対して、42節「あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。」と言われる。ユダヤ人たちは、神の御心を現した神の言葉である主イエスを受け入れなかったからである。神様を愛していると思っているけれど、あなたたちは神様を愛してもいないし、モーセの律法を正しく守っているのでもない。あなたたちは神様からの誉れを求めず、人からの誉れを求めているだけだ。そう主イエスは言われたのである。旧約聖書の最初の五つ、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、この律法を神の言葉と信じ、これを守ることが、何よりも神様を愛することであり、神様に従うことだとユダヤ人たちは考えていた。しかし、主イエスは、そのモーセの律法の理解の仕方は違う。ここに現れた神の愛を、あなたたちは少しも分かっていない。もし分かっていたのなら、安息日に38年も病気で苦しんでいた人をいやしたといって、文句を言ったりしないだろう。それどころか、ここに現れた神の愛を喜び、神様をほめたたえたはずだ。何故なら、モーセの律法に記されていることは、このわたしに現れた神様の愛を記しているのであり、神様の御心そのものであるわたしについて書いているからである。そう主イエスは言われたのである。

 神様を愛するということは主イエスを愛すること、神様に従うということは主イエスに従うということである。主イエスの言葉を求め聞くということである。主の言葉を求めて、教会に通う、一生懸命に神様の御旨に適った行いをする。主の御心であると信じてやり続けるのかということである。ここに、キリスト者とは何者であるかということが明らかに示されるのである。
 キリスト者とは、ただ神様からの言葉を求め誉れを求める者であり、この地上の生涯において少しも報われることがなくても、神様を愛し、主イエスに従って生きるならば、やがて天にある、朽ちず、けがれず、しぼむことのない、永遠の命という栄光を受けることを知っている者なのである。私達は、自分の生涯が閉じられた後の「良くやった。」という神様からの一言だけを求めて、この地上の生涯を走り抜く者なのではないか。当時のユダヤ人たちは、神の愛がないから、主イエスを受け入れなかった。主イエスを受け入れるということは、私達の内に神の愛そのものである主イエスが宿るということである。この我が内に宿り給うキリストが、神に従うよりも人に従わせようとするサタンの誘惑から私達を守り、神の国へと、神の平和へと私達を導いてくださる。アドベントの時、この我が内に宿り給う主イエス・キリストの守りと導きとに信頼して、主の言葉を求め、本当に語らねばならないことを語り、本当に為さねばならないことを為していく者として、主の御前に歩んでまいりたいと心より願うものである。

イザヤ書40章1節―11節
40:01 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。
40:02 エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。
40:03 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
40:04 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
40:05 主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。
40:06 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
40:07 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
40:08 草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
40:09 高い山に登れ/良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ/良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな/ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神かみ
40:10 見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。
40:11 主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。

トップ説教要旨 > 2015年12月6日 主日礼拝説教要旨