[2015年9月6日主日礼拝説教要旨]

「私の誇りは十字架にある」ルカ14:25−35・ガラテヤ6:11−18
14節「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」とある。何と熱く激しい一途な思いが表れている言葉だろうか。パウロは、自分は主イエス・キリストの十字架を誇る、それ以外に誇るべきものがあってはならないのだとまで言い切るのである。そして、キリスト者とは、「新しく創造され」た者であると15節で告げている。キリスト者になるということは、神様によって新しく生まれ変わることである。そのすべてが、主イエスの十字架に結びつけられた者となるのである。神様によって変えられる。主イエスの十字架によって変えられるのである。私達は、十字架に結びつけられ、十字架と共々に生きる者となったということなのである。主イエスの十字架をなかったことにして生きることなど出来ない者とされた。それが私達なのである。
 パウロはこの手紙を閉じるにあたって、11節で「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」と言って書き出した。当時の手紙は口述筆記である。この手紙も、パウロが語るのを誰かが横で書き取るというあり方で書かれた。しかし、この手紙を閉じるにあたって、パウロ自身が筆を取って、今朝与えられている御言葉のところを書いた。しかしパウロは、ここで単なる最後の挨拶を記したのではない。どうしてもこれだけは自分の手で書かねばならない、どうしてもこれだけは伝えておかなければならない、そう思ったことを書き記したのである。それが、「私はキリストの十字架のみを誇る」ということであり、「大切なのは新しく創造されるということ」である。さらに「私はキリストの焼き印を身に受けた者だ」という、宣言とでも言うべき言葉を記している。私達もこのガラテヤの信徒への手紙の最後の部分を読み、この御言葉をしっかり心に刻みたいと思う。そして、私達もパウロのように、主イエスの十字架によって新しくされた者として、主イエスの十字架のみを誇りとし、キリストの焼き印を身に受けた者として歩んで行きたいものである。
 それにはどの様に生きるべきだろうか?日々の生活、一刻、一刻にキリストの十字架の愛、恵みを自覚して生きて行く他はないのではないだろうか。主イエス・キリストは貴方を変えて下さるのである。


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