[2015年7月5日主日礼拝説教要旨]

主イエスは、はらわたを痛める程心を動かされながらも、一人息子を亡くした母に向かって、「もう泣かなくともよい。」と言われた。直訳すれば、「もう泣くな。」という言葉で、大変きつい言い方である。主イエスはこの時、腹を立てられたのだと思う。それは、一人息子を失って嘆いている母親に向かってではなく、この母親をここまで嘆かせ、圧倒的な力をもってこの母親をおしつぶしている、死に向かって主イエスは腹を立て、怒ったのである。主イエスは、死に向かって怒り、この母をおしつぶしている死の力をはらいのけようとされる。そこで告げられた言葉が、「もう泣くな。」という言葉だった。
 主イエスは、青年の死体を乗せた棺に手をかけた。それは、死の行進、墓場へと進む、陰府へと進む行進を、主イエスがその前に立ちはだかって止めたということでる。誰も引き返せない、誰も止めることの出来ない死の行進を、主イエスは止められた。全ての者がその力の前に、ただ泣き、嘆くしかない圧倒的力をふるう、死の力をはらいのけ、打ち破ろうとされた瞬間であった。主イエスは、すでに死んでいた青年に向かって告げる。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」すると、死人は起き上がってものを言い始めたのである。死んでいた者がよみがえったのである。ここで、「起きる」と繰り返されている言葉は、復活を語るときに用いられる言葉である。青年は復活した。主イエスが復活させられたのである。この時、母親をおしつぶしていた死の力は、主イエスによって打ち破られたのである。
この出来事は主イエスには死を打ち破る力があることを示し、また主イエス・キリストの復活の出来事を指し示す「しるし」となった。そして又、この出来事は、全てのキリスト者に与えられるまことの救い、すなわち、罪の赦し・体のよみがえり・永遠の命を指し示したのである。
 死は罪の値である。罪がなければ死もないし、死による悲しみもない。主イエスは復活によって死を打ち破られたが、その為には復活の前に十字架による罪の赦しがなければならなかった。罪の赦しと体のよみがえりは、ひとつながりのことである。主イエスの十字架によって罪赦された私達は、たとえ死んでも、やがて時が来れば復活という救いに与るのである。この青年の耳もとで主イエスが「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」と告げられたように、やがて時がくれば私達の耳もとで告げられるこの主イエスの声を聞くのである。「起きなさい。」「よみがえりなさい。」「復活しなさい。」その主イエスの御声と共に私達はよみがえり、永遠の命に生きる者となるのである。死は私達の全ての終わりではなくなったのである。だから「もう泣かないでいい」。何時も喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝してこの週も歩んで行きたい。

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